第一次被災地支援

災害地派遣第一陣報告

 

<CILたすけっと 被災地障害者センターみやぎ>

 

 夜行バスで到着した仙台から地下鉄で数駅、CILたすけっとを訪ねた。ここでは職員の豊川さんのお話を聞いた。やはり避難所では障害者に関するトラブルが起こっているらしい。そもそも避難所においては障害者の人数が正確に把握されておらず、役所に問い合わせてみると「障害者はいない」と返答が返ってきても、実際にそこに赴くと車イスで移動している人を見かける、といった状況であるらしい。
 避難所でのトラブルとしては、精神・知的障害者が「うるさい」「気に障る」と言われたり、車いす用トイレが無い、人目を避けなければならない、といった問題が起きている。その他にも、避難所では生活ができず自宅に戻る人(自宅に帰ると仮説住宅に入居できない)がいるという問題もあり、これからさらなる問題が表れてくることも予想されている。
 CILたすけっとでは、現在問題の実態解明とできることを調査しており、とりあえずの活動としてはレスパイトという気分転換のための障害者(とその家族)の連れ出し活動を行っているらしい。
 震災における障害者の問題は、震災によって起こっているというよりも、今まで元々あった問題が震災によって表出しているという側面が強い、と豊川さんは語っていた。

 

 

<石巻市>
 現在JR石巻駅には電車が通っていないため、高速バスで仙台から向かわなければならない。駅へ到着すると、まず海も見えない商店街の中であるにもかかわらず、少し強めの潮のにおいを感じた。時間の都合上長くは滞在できなかったため、海岸方面ではなく、川へ向かって歩いた。
 川へ近づくにつれて少しずつ被害の実態が見えてきた。崩れたアーケード街の屋根、倒れた電柱、一階部分が波にさらわれた建物の群れ、人の背丈ほどの波の跡、そして疲れ切った住人の瞳、どれも現実味のない光景だった。
 そして河川に到着すると、さらに壮絶な光景が広がっていた。がけ崩れの跡、海岸は1キロほど離れているのに橋に打ち寄せる波、波打つ橋、打ち上げられた10メートル級のクルーザー、川岸の建物はすべて大破していた。初めて見る被害大の地域の景色に言葉を失わずにはいられなかった。
 復興のための活動としては、ピースボートの一団は炊き出しの準備をして、少ない商品でも変わらず売り出しをしている商店、血圧の測定を行っている保健センターと木につるされた感謝の言葉といったように力強く活動する人々の意思が感じられた。また、交通整備をしていたのが愛知県警であったり、神戸市のごみ収集車が通ったりと全国規模での支援の様子も知ることができた。


<遠野市>
 仙台から高速バスで3時間、岩手県の遠野市に到着した。遠野市では「岩手まごころネット」というボランティアの一団が結成され、バスによって釜石市・陸前高田市・大槌町へ朝の8時から16時ごろまでボランティアが派遣されており、精力的な活動がされていた。規模は平日で150人、休日で400人ほどだが、徐々に人数が減っているという声も聞こえた。
 基本的に参加者は体育館で寝泊まりをしており、食事は各自調達、風呂はシャワーか銭湯といった生活だった。近所にはスーパーや飲食店、コンビニは多いが、普段よりこれらの店舗では多くの仕入れを行っているらしい。銭湯も市内の何か所かに点在しており、活動後は常に満員だった。
 センターの本部は公民館と体育館で、受付(ここで保険に加入したりや特別な技能を持つ人はここに申請する)と会議室、トイレやシャワールーム(一回15分)といった設備があった。ボランティアの活動も様々で、通常は家屋等の瓦礫の撤去や河原のごみ拾いといった力作業だが、重機やフォークリフトの取り扱いができる人はそれらを使ったり、マッサージや理容、美容の技能がある人は避難所に派遣されたりするらしい。似顔絵を書ける人が避難所の人々の似顔絵を80枚書いていたという例もあるように、様々な技能が求められていた(資格の有無は問われない)。
 我々は通常の参加者とは別に「共生ユニオンいわて」という団体に公民館を借りてもらい、寝食のお世話を受けて活動することができた。食事は三食用意してもらえるが、食器洗いや部屋の掃除、自分の道具の準備といった最低限の事項は自分自身で行う必要があり、共生ユニオンの人々の負担を軽減させるように生活する必要があると考えられる。特に代表者の高橋さんの話では、夏季に入ると布団のシーツの替えが不足するため、持参してほしいとのことである。風呂の設備はないため、こちらは銭湯にお世話になる必要がある。

釜石市(白浜・仮宿)・陸前高田市・大槌町への派遣活動
 第一陣はなるべく多くの箇所を回るべきだと考え、1日目は釜石市白浜、2日目は釜石市仮宿、3・4日目は陸前高田市、5日目は大槌町へのボランティアに参加した。どこもリアス式海岸の地域であるために被害は大きく、市街地は文字通り壊滅しており、平地が続く限り建物は無いか空っぽの状態となっており、数キロにわたって津波が河川を駆け上がっていた。どこも5メートル級の防波堤があったが、波が15メートルを超えるレベルでやってきていたために、崖の上の木にブイが引っ掛かっていたり、防波堤が引き潮で破壊されたりしていた。山に津波がぶつかると高さが40メートルを超えることもあるようで、三陸沖地震の津波を経験した世代ですら口をそろえて「まさかここまで…」ともらしていた。「1000年級の大災害」というのはレトリックや誇張ではなく、純然たる事実であることを思い知った。こうした光景に関してはすべてが衝撃的で語りつくせるものではないため、陳腐ではあるが「テレビで見るのと実物を見るのとでは全然違う」という表現を以て報告を終了させる。
 作業としては瓦礫の撤去や河原のごみ拾いといった基本的な作業を行ったが、常に写真や本人の証明ができる保険証のような物品に関しては回収を怠ってはいけない。活動において何よりも重要になるのが自分の安全管理、体調管理で、釘のふみ抜きや擦り傷などは感染症へつながるため細心の注意を払わなければならない。ふみ抜き用インソールを着用しても高い位置から飛び降りた先に釘があると、インソールすら突き抜けてしまうため過信してはならない。重たいものを運ぶことが多いため、足元に落とさないように注意することも重要である。体調に関しては、短時間しか仕事ができないからといって、張り切りすぎて熱中症や腰痛といった状態になりやすいため、疲れたら休憩時間でなくてもすぐに休憩し、水分と塩分を補給する必要がある。農業・土木業などに携わるプロの作業員はこうしたことをよく知っているが、大学生などの若者は理解が少ないため最も危険であるといわれている。頑張らない、あきらめるといったことができるのが重要であると多くの大人が語っていた。

 

 

<宮城県沿岸部の視察>

 7日目の朝、共生ユニオンの方々に見送られ遠野市を後にし、仙台市へと向かった。そこでは東北全労協のサカイさんのお世話になって車で宮城県の沿岸部を仙台から東名という場所まで案内してもらった。岩手はリアス式海岸地形で、山が近いため波の高さが目立ったが、宮城の沿岸部は平地であるため、その被害範囲の広さに驚かされた。とはいえ、沿岸部に何も残らないという点においては両者とも違いはなかった。
 特異な地域としては観光地として有名な松島で、ここでは点在する小島が防波堤の役割を果たし(実際の防波堤はほとんど役に立たなかったといわれているが)、一時的に潮位は上がったものの、被害は軽微であったらしい。
 東名へ訪れると、まずは沿岸の集落を見て回った。最も奥にあったのが月浜という集落だったが、道中では田んぼや畑の塩害が目立った。月浜もご多分に漏れず大きな被害を受けており、けがをした猫がえさを求めてさまよう姿は痛々しかった。ただ月浜では奇跡的に死亡者、行方不明者が0人で被害は甚大であるものの、ここへきて初めて救われた気持ちになった。
 東名へ戻ると高橋さんという方のお話を伺った。高橋さんによれば、東名では450世帯700人のうち、180人が死亡、15人が行方不明となったと言う。山の上の逃れた人々が生き残り、当初避難所となっていた体育館に逃げた人々でさえ助からなかったそうである。他にも車で逃げた人、一度戻った人、無関心であった人が亡くなったと語っており、山へ逃げても一晩明かすうちに凍死した人もいたそうである。「死んでも地獄、生きても地獄」と涙を浮かべて語る高橋さん自身、多くの死者(中にはお孫さんと同世代の小さな子供)のご遺体を見たことを痛切に語り、その場にいた全員が言葉を発することができなかった。
 最後に高橋さんの息子で牡蠣の養殖業を営んでいる高橋洋さんのお話を伺った。洋さんは震災当時、息子さん2人を連れて東山動物園に行っていたらしく震災を免れたが、養殖場と加工工場は壊滅状態となってしまっており、その復興のために年上の漁師さんたちと力を合わせて現在努力を重ねていた。洋さんは自分の牡蠣に絶対の自信を持っており、種牡蠣を他の都道府県や世界中に出荷することもしていたらしい。もともと洋さんは他人に頼ることに抵抗を覚えてしまうといっていたが、今回の震災で周囲を頼るということができるようになったと照れくさそうに語っていた。学生にもインターネットでのHPやブログの立ち上げをして手伝って欲しいと言っており、我々にも行える支援の形が少しだけ見えた気がした。
 東名では初めて被災地の人々の話を直接落ち着いて聞くことができた。震災の被害や実態を知り、今後の活動を考えるうえで、こうした活動は必須であると考えられる。

参加者の感想

 今回のボランティアには4人のメンバーで行きました。出発前は、正直に言うと、4人で何ができるのだろう、と少し不安な気持ちがありました。
 現地(遠野)へ到着し、ボランティアセンターの方と一緒に移動することが分かりました。ボランティアは平日であっても、150人以上は集まっていたので、力を合わせれば一日でもかなり作業が進んでいると感じました。
 5日間働いただけでしたが、釜石市、陸前高田、大槌町などへ行きました。
庭の瓦礫の掃除、瓦礫や泥の片づけ、川辺の瓦礫掃除などを一日で20人くらいのグループに分かれて、15畳ほどの地方をきれいにすることができました。片付ける前の周辺と比べ、きれいになったところをみると、たくさん力を貰い、また続けたいという気持ちが強くなりました。
 もちろん現場に行き、瓦礫や泥に終わりがないところを見ると、一日の仕事ではたいしたことができないと思うこともありましたが、毎日少しずつ作業を進めていると、一人一人の力を合わせれば、前に進んでいるのだと感じるようになりました。
 3月11日からすでに3か月が経ちましたが、まだまだ瓦礫だらけのままの状態でとても心が痛みます。
 これからは、どんどん暑くなるし、仕事をするのは大変かもしれないけれど、できれば多くの人に現地に行ってほしいと思います。実際自分の目で見ても、あまり3月11日の想像はできませんでした。

 岩手県に行った1週間で、いろいろなものを見たり、いろいろな気持ち感じたり、いろいろな人と出会いました。悲しみを感じながらも、出会いの喜びや、人々の力を強く感じました。
 私自身はできれば早くまた戻りたい、ボランティアを続けたい、と思います。現地で貰った力を大切に守り、忘れないように頑張りたいと思います。

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